「西洋美術の歴史」要約メモ #9 第4巻第3章後半〜第5章
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第3章 15世紀のイタリア美術(承前)
ヴェネツィアではもともとビザンティン絵画の影響が強かったが,15世紀にヤーコポ・ベッリーニによりルネサンス様式が導入された。ベッリーニの工房はドゥカーレ宮殿の装飾を引き受けていた。 ヴェネツィア神話の形成において,ライオンを用いた都市の擬人像(カルパッチョ「聖マルコのラ イオン」など)が重要である。
ルネサンス君主にとって,マグニフィケンティア(豪華さ)は重要なものであり,宮廷美術を形成することとなった。
例:
- ミラノ:スフォルツァ家(レオナルド・ダ・ヴィンチの滞在)
- マントヴァ:ゴンザーガ家(アルベルティ,マンテーニャ)
- フェッラーラ:デステ家
- ウルビーノ:モンテフェルトロ家(ベルゲーテ,ドナート・ブラマンテ,ラファエロ・サンツィオ)
14世紀のアヴィニョン捕囚で教皇庁が移動された結果,一度ローマは荒廃した。15世紀には教皇庁がローマに戻り,ローマ復興のための事業を執り行った。例えばシクストゥス4世は,システィーナ礼拝堂の建築とその装飾を成し遂げた。後にミケランジェロ「最後の審判」が祭壇壁面を覆うことになるが,それまで壁画ではモーセとキリストの予型論,ペテロの権威,教皇の系譜と権威が示されていた。そして15世紀ローマにおいて,教皇のみならず枢機卿たちもパトロンとして美術活動を支えてきた。
第4章 盛期ルネサンス
1492年は,ロレンツォ・デ・メディチの死とコロンブスによるアメリカ大陸発見の年である。また人文主義の概念を問い直す時期でもあった。
代表的画家について:
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自然以外から学ぶものは何もないというスタンス。とはいえ自然描写にはフランドル絵画の模倣あり(「受胎告知」の山並みなど)。ミラノに移り「音楽家の肖像」などを制作する傍ら,研究と素描を積み重ねる。「絵画論」では,人間のコンチェット(内なる思い)をジェスティ(身振り)とモヴィメンティ(動き)で表現することを,画家の職務と語る。
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「ダヴィデ」など多くの彫刻作品を残すが,未完成の彫刻も多いとされる。「最後の審判」は始め12使徒を想定していたが,やがて300人超えの人物により創世記をもととした複雑な構造体となった。
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37歳で亡くなったとされ,情報が少ない。「キリスト磔刑」からはペルジーノの影響がみられる。素描「マリアの誕生」は彼の卓越した素描テクニックを示している。
16世紀後半のイタリア半島は波乱の連続であった。
16世紀初頭,イタリアでは「マニエリスム」の動きがみられるようになる。「マニエラ」は様式の意味があり,主にヴァザーリにより理論的価値が与えられた。
ヴァザーリによると,15世紀の原理に対して16世紀では
- 「規範」→「自由」
- 「方式」→「装飾」
- 「比例」→「判断力」
- 「ディセーニョ(素描)」→「巧技」
- 「様式」→「軽妙」
が付与されるべきとしている。
トスカーナにおける代表的画家はポントルモのほか,ロッソ(「死せるキリスト」など)やブロンツィーノ(「愛の寓意」など)がいる。トスカーナにおいて,コジモ1世の宮廷美術においてマニエラは成熟した。
ローマにおける治世とマニエリスム美術
- ハドリアヌス6世(1522〜23):芸術の凍結(ジュリオ・ロマーノ「神々と巨人族の闘い」など)
- クレメンス7世即位(1523年):マニエラ抱卵期(カラーリオ「神々の愛」など)
- ローマ劫掠(1527年):(パルミジャーノ「首の長い聖母」など)
- クレメンス7世帰還(1528年):ローマ復興
- ミケランジェロ「最後の審判」の除幕(1541年)
第5章 ヴェネツィアの美術
フィレンツェに遅れること1世紀,ヴェネツィアにおいてもルネサンス美術の黄金期を迎えることとなる。代表的画家であるジョルジョーネの「日没」においては,輪郭線の否定や「チャンス・イメージ」がみられる。
トスカーナ絵画が「素描」であるのに対して,ヴェネツィア絵画は「彩色」が特徴的である。パオノ・ピオーロ「絵画問答」によると,自然を模倣する絵画の構成要素に「素描」「構成」そして「彩色」を挙げている。またロドヴィーコ・ドルチェは,彩色に加えてぼかしがコントラスト表現に重要であるとする。実例としてティツィアーノ「聖ラウレンティウスの殉教」が挙げられる。
また,ドルチェ「絵画問答」によると『必要なことは,描かれた人物が見る者の心を動かすこと,(略)』とある。ここで詩人と画家の対応関係に注目(「詩は絵のごとく」)。例えば女性肖像(ジョルジョーネ/ティツィアーノ「眠れるウェヌス」,ティントレット「スザンナの水浴」など)においてはフェティッシュな文学的主題を取り込んでいる。
16世紀後半のヴェネツィア絵画の代表として,ヴェロネーゼ「レヴィ家の饗宴」が挙げられる。これに対しては1573年,世俗的要素が問題視され異端審問に取り上げられた。やがて銘文を加えるのみの修正が行われた。ここからヴェネツィアと教皇庁の緊張関係が読み取れる。
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