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「西洋美術の歴史」要約メモ #3 第2巻第Ⅰ部(第1~3章)

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第2巻の概要 

西洋美術の歴史2 中世I - キリスト教美術の誕生とビザンティン世界

西洋美術の歴史2 中世I - キリスト教美術の誕生とビザンティン世界

 

 

読了日:2019/03/06

 

レビュー:

第Ⅰ部はローマにおける初期キリスト教美術について。民族移動とそれによる政治的変化が美術品に表れる。/第Ⅱ部はビザンティン美術についての,図像学的解説。聖書に基づいて,聖堂の壁画の象徴性を紐解く試み。

 

目次:

第Ⅰ部 西欧初期中世の美術

 

第Ⅱ部 ビザンティン美術

  • 第4章 ビザンティンとは何か
    1. 西欧に対する異質さ
    2. ビザンティンと「西洋」
  • 第5章 哀しみの美術
    1. キリスト神殿奉献
    2. 受難の聖母
    3. 聖母の嘆き
  • 第6章 イコノクラスム
    1. イコン信仰と画像崇拝の禁止
    2. 画像擁護の理論
  • 第7章 写本挿絵
    1. 写本の約束事
    2. 貴族詩篇
    3. 修道院詩篇
  • 第8章 聖堂装飾のシステム
    1. 絵と絵の関係性が生み出す意味
    2. ギリシア十字式聖堂の装飾
  • 第9章 ある修道院の物語
    1. モザイクの金,フレスコの青
    2. 聖母子サイクル
    3. キリスト幼児伝
    4. 装飾プログラムの謎解き

 

1章 初期キリスト教美術とは何か

キリスト教ユダヤ教内における改革運動に始まるとされる。旧約聖書偶像崇拝が禁止されているため美術品は製作されなかったと考えがちだが,近年「モーセの紅海渡渉」などの場面にまつわる床モザイクが相次いで発見されている。

 

キリスト教美術の定義について本書の見解:

一つの共同体においてその信仰の形態が整った時期とほぼ同じ頃に,人々の精神的なヴィジョンのなかに誕生し,それは彼らを取り巻いていた文化的産物と関わりを持ちながら,その社会の「象徴体系」に組み込まれていったに違いない(p37

 

ΙΧΘΥΣ(魚)」は最初期キリスト教美術の象徴的図像である。キリスト教徒の共同体発展に伴い発達したカタコンベによく見られる。

弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。 9「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」 10エスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。 11さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。 12人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 13集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。 14そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。(ヨハネによる福音書第6章 新共同訳聖書)

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9 より引用

 

 

キリスト教美術が誕生した当時のローマでは,ギリシャやオリエントの美術が流布していた。ここではキリスト教と従来の信仰が入り混じるさまを見いだすことができる。初期キリスト像の代表例に,サンタ・プデンツィアーナ聖堂にあるモザイク壁画「王座のキリスト」があるが,これは皇帝像あるいはユピテル・セラピス像からの変容によると考えられる。また聖母マリアは,エジプトの女神イシスからの変容であると考えられる。キリスト教多神教との共存はテオドシウス大帝の時代に終えられる。彼は392年からキリスト教国教化を行う過程で,すべての異教神殿を閉鎖した。

 

キリスト教への改宗が盛んになる一方で,伝統的宗教へのリヴァイヴァルも見られた。例えばプロティノスプラトン思想と三位一体を結びつける新プラトン主義を提示した。「プロイェクタの婚礼用小箱」からは,異教文化の浸透したなかでのキリスト教徒の生活が読み取れる。

 

キリスト教美術の誕生については東西で意見が割れるのが現状である。

地中海世界のヘレニズム文化が深く根付いた大都市を中心とした各地で,いわゆる古代ローマ美術の枠内に同時発生的に誕生した(名取四郎「キリスト教美術」)』

 

313年のミラノ勅令によりキリスト教が公認されたのち,続々と聖堂が建てられるようになった。4世紀以降の教会建築は,「バシリカ式」と「集中式」をもとに発展した。バシリカ式教会建築の例に,サンタ・サビーナ聖堂がある。

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サンタ・サビーナ聖堂 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%8A%E8%81%96%E5%A0%82 より引用

 

洗礼堂における象徴性についての考察。初期キリスト教時代には八角形の洗礼堂が多く建設されたが,洗礼において「8」という数は象徴性を帯びている。

この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。 21この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。(ペテロの手紙1 第3章)

 

2西ローマ帝国の崩壊と異民族の躍動

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ゲルマン民族の移動 https://rekisi.mimnez.com/geruman/ より引用

375年にフン人が東ゴートを襲撃したことを起点に,西ゴートが押される形で民族の大移動が生じた。西ローマ帝国は,476年にゲルマン人傭兵オドケアルにより実質滅亡した。ガリアにおいてはフランク人が勢力を拡大して,481年にクローヴィス1世によりメロヴィング朝が開かれ,全フランクを統一した。一方ブリタニアにおいては,ローマ軍の撤退以降,多民族が入り混じるアングロ=サクソン七王国時代に入った。フン人の侵攻とゲルマン系諸民族の大移動は,東方美術の西方への伝来に大きく影響した。

 

初期中世のバルバロイの金属細工は,ローマ美術と密接に関わりながらも,装飾原理や社会的立ち位置に関しては独自の解釈をとった。一方でフランクの金属細工は,アングロ=サクソン,ゴート,ビザンティン,イタリアなどの影響より発展した。ゴートでは,大きな鷲型ブローチが女性用の装身具として普及していた。

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鷲型ブローチ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:F%C3%ADbula_aquiliforme_(M.A.N._Madrid)_02.jpg より引用

476年に建設された東ゴート王国においては,「アナスタシス・ゴトールム」を例にゲルマン的ゴート美術からの乖離がみられる。553年までの短命な王国であったが,そこではローマ人とゴート人の調和が実現されていた。

415年に建設された西ゴート王国は,イスラーム勢力によるイベリア半島征服により711年に壊滅した。のちに生存者により718年にアストゥリアス王国が形成された。サン・フリアン・デ・ロス・プラードス聖堂は西ゴートの名残がみられる建造物の代表例である。アストゥリアスの美術は主にアルフォンソ2世により牽引され,後世に継がれることとなる。

 

56世紀のゲルマン社会において,「動物様式」とよばれる動物の形象を抽象化した意匠が普及した。さらに7世紀には組紐文様と融合した動物組紐文様が装飾に入った。ここではキリスト教と異教の解釈世界が入り混じっている。

古代ケルト美術においては,渦巻き文様や三つ巴文などの抽象文様がみられる(代表例:バタシーの盾,ダロウの書)。5世紀にはケルト社会での布教が開始され,そこからヨーロッパ大陸へと広げていった。

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(左)バタシーの盾 http://hmpiano.net/salon_friend/k.mitiko/year2009/09.03.26celt/newpage.html より(右)ダロウの書 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%81%AE%E6%9B%B8 より

ランゴバルド586年にイタリア半島に進出して,774年にフランク王国に滅ぼされるまで王国として存続した。ランゴバルド美術の代表例として,サンタ・マリア・イン・ヴァッレ聖堂の聖女像やラチスの祭壇があり,その2つは異なる様式からなる。

 

民族移動期の美術は,北方の「バルバロイ」が抽象的装飾をもたらした一方で,古代ローマからの地続き的側面もみられることに注意。

 

3章 古代復興の理念と現実

5世紀になりローマは,いわゆる「パクス・クリスティアーナ」へと変貌していた。数々の王国の瓦解により荒廃した都市と,増え続けるキリスト教徒とに対応して,古代建築の再利用がみられた。サンタドリアーノ・アル・フォロー聖堂は,もとはローマ帝国元老院議事堂であったものがキリスト教聖堂へと改変された例である。

ピピンの寄進」により教皇領が形成され始め,800年の「カールの戴冠」によりカールは西欧キリスト教国家の保護者として位置付けられるようになった。

カールからの寄進により,教皇レオ3世をはじめとして復古的な芸術活動が盛んに行われた。それを引き継いだパスカリス1世は在位中に,サンタプラッセーデ聖堂などの再建をおこなった。初期中世ローマ美術においては,単なる初期キリスト教美術の模倣のみならず,ビザンティン美術からの影響がみられる。

 

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アーヘン大聖堂 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Aachen_Germany_Imperial-Cathedral-01.jpg より

8世紀後半から9世紀末にかけて,フランク王国では「カロリング・ルネサンス」と称される古典学芸復古の動きがみられた。その動きは西欧のほぼ全域に及び,アングロ=サクソンや西ゴート,イスラーム勢力との交流に寄与した。しかしカール大帝の没後には衰退することとなる。

当時宮廷が置かれたアーヘンでは,カールにより宮殿の建築工事が行われた。カロリング朝時代では聖堂建築において「西構え」が新たに導入された。

またカロリング時代では,キリスト教国家の文化政策により「戴冠式福音書」をはじめとした写本装飾が発達した。そこには扉絵に著者像が描かれたり,物語の場面が表されたり,イニシャルに場面を盛り込んだりなどの装飾がみられる。

 

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ザンクト・ミヒャエル聖堂 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hildesheim-St_Michaels_Church.interior.01.JPG より

カロリング朝の断絶したのち,オットー朝が東フランクの王位を継承した。アーヘンの宮廷は帝国の衰退とともに荒廃するが,オットー朝に入ると再建が進んだ。982年にオットー1世は「神聖ローマ帝国」の初代皇帝となる。

ベルンファルトにより建設されたザンクト・ミヒャエル聖堂は,オットー朝美術の代表例である。ほかには「ベルンヴァルト記念柱」や「ゲーロの十字架」など,モニュメンタルな彫刻芸術の成立がみられた。写本については,「ザンクト・エンメラムの黄金福音書」「ハインリヒ2世の典礼福音書抄本」が代表例としてあげられる。

 

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