「西洋美術の歴史」要約メモ #2 第1巻4〜6章
#2では1巻の第4~6章までを扱う。
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第4章 帝国美術の形成
ローマ美術の特徴は,皇帝による美術様式の主導である.例えばパクス・ロマーナをもたらし帝政を開始したとされるアウグストゥスは,ヘレニズムと決別して調和と敬虔さを体現した.その後のユリウス=クラウディウス朝ではアウグストゥスの模倣が見られた.それがネロの自殺で閉幕するとウェスパシアヌスが皇帝となったが,彼主導の作品からは前朝からの決別が読み取れる.
都市開発の分野ではカエサルやアウグストゥスらが活躍した.彼らの没後,平和の祭壇や日時計が礼賛を込めて建設された.
ローマの見世物は,コロッセウムに代表されるように鑑賞する側が主体であった.
壁画の変化はポンペイの四様式により区分される.第一様式『彩色と漆喰を駆使して高価な色大理石の切り石を積んだ豪華な壁面』→第二様式『壁の向こうに広がる空間をだまし絵のように描き始めた』→第三様式『非現実的で装飾的な建築モチーフを好む』→第四様式の例:ネロの黄金宮
第5章 帝国美術の拡大と変容
ローマ美術の傾向として,トラヤヌス記念柱に見られるように『現実の戦争を直接的に描くことを好んだ』(p422)ことが挙げられる.
公衆浴場であるテルマエはアグリッパにより始められ,浴場としてだけでなく適度な運動の場であり社交の場でもあった.
石棺を見てみると,「アキレウスとペンテシレイアの石棺」のようにローマではなくむしろギリシアの神話や英雄譚が彫られていたり,「ヨナの石棺」のようにキリスト教主題がはっきりと表れていたりすることがわかる.
ミラノ勅令により,キリスト教時代は始まったといえる.ただしところどころで「記憶抹消の刑」は起きたものの,キリスト教以外の宗教を排斥するものではなかった.むしろ異教の美術品を愛でることは上流階級の人々にとっては教養的姿勢であった.
第6章 東方のヘレニズム美術
p508で,東方ヘレニズムについて著者らの定義が書かれている『東方における「ヘレニズム時代」とは,その端緒はアレクサンドロス大王の東征であり,(中略)「ヘレニズム」の地理的範囲は,メソポタミア,イラン,中央ユーラシア南部,アフガニスタン,および,アレクサンドロス大王あるいらグレコ・バクトリアの諸王によって征服されたインド・パキスタンである.』
シルクロード,または西域とは,35000kmにわたる交易路であり,単なる東西の線分でなく南北にもわたるインターネットとして機能していた.例えばグレコ・イラン様式の誕生においてp562 『北方からのイラン系騎馬民族の王朝が,西方からのギリシアを愛好し,仏教を南東から受容し,東方の中国へと発信した.』ことが現象として挙げられる.
ギリシア・ローマ美術の伝播は一方的なものだけでなく,東がそれを吸引し主体的に発信する例が多く見られた.神と人間を結ぶ存在であるなど共通点が多いことからヘラクレスを仏になぞられたり,「トロイアの木馬図・出家踰城図」ではローマ的物語を仏教的な寓意へ変換したりした.
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