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「西洋美術の歴史」要約メモ #11 第5巻第4章〜第7章

 

西洋美術の歴史5 ルネサンスII - 北方の覚醒、自意識と自然表現

西洋美術の歴史5 ルネサンスII - 北方の覚醒、自意識と自然表現

 

 

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第4章 人間と自然

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(上)メムリンク最後の審判」 (下)ヒエロニムス・ボス「快楽の園」

15世紀後半〜16世紀初頭までのネーデルラント美術を代表する画家と作品例

  • ブルッヘのペトルス・クリストゥスー「キリストの降誕」
  • ルーヴェンのディリク・バウツー「最後の晩餐の祭壇画」
  • ヘントのヒューホー・ファン・デル・フース
  • ハンス・メムリンクー「最後の審判の祭壇画」「聖女カタリナの神秘の結婚」
  • ヘラルト・ダフィットー「処女のなかの聖母マリア」「キリストの洗礼の祭壇画」
  • ヒエロニムス・ボスー「快楽の園の祭壇画」

 

シャルル突進公の死によりブルゴーニュ公国はフランスに編入されることとなる。後にアントウェルペンが国際的な貿易都市として栄えた。この様子はヤン・マセイス「フローラ」によく表れている。

16世紀ネーデルラント美術の特徴として,折衷主義,初期ネーデルラント絵画への懐古主義,ロマニズムが挙げられる。

 

16世紀前半のロマニスト(ローマに留学したネーデルラント画家)の例

  • ヤン・ホッサールトー「ポセイドンとアンフィトリテ」
  • マールテン・ファン・ヘームスケルクー「聖母子を描く聖ルカ」
  • ファン・オルレイー「ヨブの試練と忍耐の祭壇画」
  • クック・ファン・アールストー「最後の晩餐」
  • フランス・フローリスー「反逆天使の墜落」

 

第5章 南北交流

1300年代にはイタリアのトレチェント美術のアルプス以北への伝播が見られるのに対して,1420年代ファン・エイク兄弟などの写実表現の隆盛により北から南への伝播が目立つようになった。北から南への伝播の理由については,20世紀初頭から多く研究されている。

 

フランドル絵画による相互作用の例

  • 画家H(ジャン・クーヌ?)によるヤン・ファン・エイク「キリスト磔刑」の模倣
  • フラ・アンジェリコ「キリストの哀悼」の図像をもとにしたと考えられるロヒール「墓の前での哀悼」
  • イタリアの手法を取り込んだジャン・フーケ「エティエンヌ・シュヴァリエの時祷書」挿絵彩飾

 

第6章 デューラーの悩みードイツ美術にとっての美と醜

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(左)十三歳の自画像 (右)1500年の自画像

アルブレヒト・デューラーの「私には美とは何であるかわからない」という独白をもたらした,ドイツ美術についての考察。

 

デューラーの代表作

  • 「1500年の自画像」ー西欧では希少な正面向きの肖像
  • 「ロザリオの祝祭」ー外光をふんだんに用いた明るい彩色,聖母マリアの膝上に描かれたハエ
  • 「12歳のキリスト」ー5日間で完成したとされる作品
  • 「1万人の殉教」ー自画像の介在
  • 「老使徒の足裏」ートゥール・ド・フォルス(名人芸)の披露

 

デューラーはイタリアの理想的美を重視する審美観に対して違和感を抱いた,そのまま受け入れれば中世末期以降のドイツ絵画を否定することとなるためである。独自の審美観を樹立する一環として,「人体均衡論四書」をはじめとした理論書を出版した。

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グリューネヴァルト「イーゼンハイムの祭壇画」

デューラーの考えとして,美とは程遠い「醜さ」が大きな役割をもつ。例えば真に美しい神の世界は,人間には知覚不能でありかえって醜く映りさえする,といった逆説的な審美観が当てはまる。作品例としてグリューネヴァルト「イーゼンハイムの祭壇画」,デューラー「老女」などがある。

 

このような議論は古代ギリシャから行われていた。例えばアリストテレス詩学」からは,対象それ自体がひどく醜かろうが,それを表現したものは人を惹きつけることが言われている。ここでは表現対象の美醜と,表現自体の美醜が区別される。

 

第7章 アルプス以北16世紀の宮廷と美術

神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世下における宮廷美術について。ザクセン選帝侯の宮廷画家には,ヤーコポ・デ・バルバリやルーカス・クラーナハがいる。「クリストフ・ショイアルの肖像」などで知られるクラーナハは,1520年代に大量の祭壇画を短期間に制作するシステムを構築した。

1517年11月1日に始まる宗教改革により,宗教美術は大きく制限されることとなる。しかしクラーナハはあまり打撃を受けることはなかった。例えば息子ルーカス・クラーナハによる「最後の晩餐」では,十二使徒のうちキリストとユダ以外は宗教改革者の扮装肖像となっている。

 

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フォンテーヌブロー宮殿 (上)外装 (下)内装 シャルル8世以降のフランス王はイタリア美術を愛好した。そのうちフランソワ1世はフォンテーヌブロー宮殿を造営,2階をイタリア人画家によるギャラリーとした。

 

16世紀ミュンヘンにおいて,ヴィッテルスバッハ家の歴代君主の多くはドイツ美術を収集していた。

 

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